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小さな足、血を流し歩行訓練 1年後には谷川岳へ
前回、センセーショナルの見出しでご紹介した、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第2弾です。

日経新聞3月12日の夕刊ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


17歳の芳野満彦氏の少年が、八ヶ岳から九死に一生を得て生還したが、両足のつま先を切断、つま先よりかかとの骨のほうが出っ張って見える12センチの足になってしまった。


吉野氏のかの有名な通称「12文足のアルピニスト」と言われる所以です。

早速自宅の古い本をあたって見たら、見つけました。


栄光の岸壁



昔の本はブックカバーに入っていたんだと、改めて思いました。
そういえば現在ブックカバーを使用している本、中々見当たりませんです。

肝心の芳野満彦著の「山靴の音」はどこへ行ったか見つけられません。
この本は何度も読み直して、いわば自分の山のバイブルみたいなものでした。

残念です。

でもこんな本も有りました。

氷壁



風雪のビバーク



「風雪のビバーク」は、松濤明氏の遺稿集です。

芳野光彦氏が八ッ岳で遭難したすぐ後、槍ケ岳の北鎌尾根を縦走中に二人で遭難死します。
その時松濤明氏が死の直前まで手帳に「足が凍え腰まで凍ってきた」と「風雪のビバーク」という遺稿集を残しました。

上記三冊は、神田神保町の古本屋街で見つけたものです。
当時自分は20代の前半位で、いつも懐寂しく、ピーピーしてました。

芳野光彦氏はつま先切断後、今から考えると信じられない位の超特訓を重ね、半年後にはやっとフラフラしながら外に出る事が出来たそうです。

1年後の5月、弟と谷川岳に行き、思い通りに行かなかったので帰って徹底的に歩行訓練をしました。
その夏には兄貴と白馬岳に行き、頂上まで登れたそうです。

まさに超人ですね、今時この様な事をしたら、超人ではなく多分狂人と呼ばれんじゃないでしょうか?

何はともあれ、芳野満彦氏の「山で育てた不屈の闘志、第2弾」をゆっくりご覧下さい。

新聞記事が横に長く、デジカメで要領よく取れなくて何枚にもなりました。
多少醜いですが、クリックして拡大してご覧下さい。


芳野満彦4


芳野満彦5


芳野満彦6


芳野満彦7


芳野満彦8



父は早大商学部教授でワンダーフォーゲルの部長、男5人兄弟の2番目で、末弟は東京五輪でボートのコックス、他はみな山男という山一家だったそうです。

これからは凄まじい限りの吉野氏の山歩きが始まります。

我ら青春の1ページを飾った、「五文足のアルピニスト」芳野満彦氏の山歩きを堪能してください。

次回も気合を入れて書きますので、お楽しみに。

乞う、ご期待!!!


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芳野満彦4

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【2007/04/27】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(1) | TB(0) | ▲ top
八ヶ岳で遭難、足先失う わらじを食べてしのぐ
今回のセンセーショナルなブログタイトル、突然で吃驚しましたでしょう。


実は、3月12日の日経新聞夕刊の人間発見のコラムで見つけました。

自分自身もこの記事を拝見した時は、約40年も近くタイムスリップしたかのようでした。


1968年~72年にかけて新田次郎の小説「栄光の岸壁」が雑誌「山と渓谷」に連載され、実在のモデルとなった人物です。

本当に懐かしく昔の友人にあったかのようです。

ある程度山をやった方なら必ず覚えている名前です。


「単独行」の加藤文太郎氏、「風雪のビバーク」の松濤明氏、そして「栄光の岸壁」の芳野満彦氏です。

その松濤明氏もあの有名な井上靖の小説「氷壁」のモデルでもあり、同じ時期に槍ヶ岳の北鎌尾根を縦走中に遭難死しています。


自分自身も17歳~25歳まで、かなり密度の濃い山歩きをしてました。

最初は東北の山から始まり、関東での近場、秩父、丹沢からスタートすると、当然北アルプス、中央アルプス、南アルプスを目指し、それからさらに立山連邦、後立山、剣岳を目指しました。


予行日帰りの出来る谷川岳は、ホームグランドのように数え切れないくらい通いました。


何故かほとんど単独行、厳冬期の1月~2月だけをはずし、12月始めの富士山に登った時は初めてアイゼンとピッケルを使用し、師匠がいないので登ってくるベテランの方のやり方を真似て憶えました。

この時期の自分の憧れの人、伝説の人が芳野光彦氏だったのです。

その方が現在、75歳で画人として無為自然の山頭火の境地をいくかの如く、元気に水戸と東京を一人で行き来していると聞き、嬉しく思いました。

確か昭和23年(1948)に12月の八ヶ岳で遭難し、11日目に奇跡の生還、その時の凍傷で両足のつま先全部切り落としたと聞いています。


昭和23年(1948)は、自分が生まれた年でもあり強烈に印象に残り、自分も八ッ岳に谷川岳と同じ回数位何度も通いました。


時には吉野氏と遭難死した八巻氏が辿ったルートをなぞなえながら登った時も有りました。

まさに青春の一ページでした。


先ずは日経夕刊人間発見、山岳画家、芳野満彦氏をご覧下さい。
新聞記事はキャスナーを使うとバイト数がバカデカクなるので、デジカメで撮りました。

クリックし、拡大してゆっくりご覧下さい。


芳野満彦1



芳野満彦2



芳野満彦3



芳野氏の凄まじいほどの山への熱い情熱、その後の強烈な人生の生き様に共感を覚え、突然タイムスリップしたかのよう、あの頃の自分自身にあった潜在意識が溢れるように湧き出した来ました。

その気持ちが非常に新鮮に感じ、また自分が再度心が洗われる爽やかな感覚になりました。

この気持ちを皆様にお伝えしたく、ブログに紹介しました。

この連載は計5回、後4回シリーズでご紹介します。

いまどき、これほど徹底した山歩きをしたり、人生に向かっていった人を見たことがありません。

結構良い刺激になりますので、お楽しみにして下さいね。

乞う、ご期待!!!


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【2007/04/25】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(2) | TB(0) | ▲ top
称名の晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
夜明けの浜辺のジョキング、第5弾です。


今回も、気が付いたら今年で9年目になっていた、夜明けの浜辺のジョギングをご紹介します。
場所は、横浜金沢区八景島シーパラダイス近くの、海の公園波打ち際ビーチです。


今回は、あの浮世絵で有名な安藤広重の金沢八景の一つ、称名の晩鐘をご紹介します。

称名寺は、いつもジョキングする海の公園の波打ち際から、歩いて約10分位で近く、走る所からちょうど称名寺の裏山が見えます。


簡単に称名寺をご紹介しますね。


鎌倉時代に金沢北条市一門が菩薩寺として建立した寺院で、北条実時が正嘉2年(1258)に居館内に造営した持仏堂が前進とされています。


赤門を抜け桜並木の賛同を進むと左右に二つの塔中、大宝院と光明院、その先に山門があります。


山懐に抱かれ、大きな池を抱えたその境内は、関東地方全域を見渡しても5本の指に入る非常に情景豊かな寺院です。


多くの文化財を抱え、背後山には散策コースも設けられ、山頂からの展望も優れていますので、見所も豊富です。


安藤広重の浮世絵です。(クリックして拡大にして見て下さい。)


称名の晩鐘
称名寺裏山


浮世絵の中にあるうた


【はるけしな山の名におふかね沢の

 霧よりもるる入あひのこえ】

註: 入あひ=夕暮れにつく鐘の音


称名寺のこんもりとした森の中から、鐘の音が漏れてくるように聞こえる夕暮れの情景。


のどかに子供が艪を漕ぐ小船は家路にむかっているのであろうか。


なかなか良いもんでしょう~。


海の公園、波打ち際から見た称名寺の裏山です。


この波打ち際ビーチが、トレーニングの場所です。

称名寺裏山



称名寺正門の赤門です。

称名寺赤門



称名の晩鐘遠景です。

今でも朝の6時と、夕方6時に六つの鐘がなります。

25秒間隔で6回、これを聞きながら走っています。

晩鐘遠景



称名の晩鐘近景です。

晩鐘近景



阿字が池太鼓橋、綺麗ですね。

阿字が池遠景



太鼓橋近景、この写真は、昨年称名寺の裏山を歩いた時撮った写真です。

太鼓橋



金沢八景、中々のもんでしょう。

これからもどんどん紹介しますね。

これからこのブログ、少しづつ変えていきますので楽しみにして下さい。


次回も、もっと内容の濃いやつ目指して書きますので、どうぞ宜しく。


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【2007/04/21】  この記事のURL | 夜明けの浜辺のジョギング | CM(0) | TB(2) | ▲ top
Over The Rainbow(虹のかなたへ)
夜明けの浜辺のジョッギング、第四弾です。

今回も、気が付いたら今年で9年目になっていた、夜明けの浜辺のジョギングをご紹介します。

場所は、横浜金沢区八景島シーパラダイス近くの、海の公園波打ち際ビーチです。

98年10月にスタートしたので 、週だいたい3~4回、年間180回位、時間は朝5時半位から8時位までで、よく続いております、よく続きますね~。


今回は、4月4日朝6時半頃でした、波打ち際をゆっくりジョキングしていると、朝日が出ているのに突然の通り雨、


何気なしに後ろを振り返ると、何と視界180度一杯に虹が出ているでは有りませんか。

吃驚したのと嬉しいのとで、慌てて担いでいるザックの中からデジカメを取り出し、早速パチリです。

今迄の9年間でこれほど大きい虹をみたのは、確か2回目です。

余り大きくて、一枚の枠にはまりませんでした。

上の方のアーチは色が薄く、おそらく写真に色は出にくいと思います。

先ずは見て下さい。


虹のかなた1



虹のかなたへ2



虹のかなたへ3



虹のかなた4



すごいでしょう、小さい虹はよく見かけますが、180度パノラマのレインボウは中々見られませんです。

ちょうどいつもお会いするウォーキングの夫婦の方と一緒に眺め、いいな、いいなあの連発でした。

あっという間で、その間約5分くらいです。

その後は、当然Over The Rainbow の歌をハミングしながらのジョッキングでした。

中々かっこいいしょ。


今日は、浜に入るとすぐこんなものが波打ち際に打ち上げられていました。


深海魚1



深海魚2



なんでしょうかね、、50cm以上は有りましたよ。

深海魚かな?それともフグの種類かな~。

いつぞやは、巨大なお化けアナゴ(直径15cm長さ約2M位)が上げっていた事も有りましたよ。


次回も、楽しい内容の濃いやつをお届けしますの乞うご期待下さい。

お楽しみに下さい。


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【2007/04/05】  この記事のURL | 夜明けの浜辺のジョギング | CM(0) | TB(0) | ▲ top
ハマのおじさん、工藤公康、「故藤生将雄、強いダイエー、影の功労者」
工藤公康、野球を知っている方で名前を知らない方はいないでしょう。

今年で43歳、球界最年長ながら気持ちも新たに、横浜で、”ハマのおじさん”として一からスタートする中高年の鏡です。

今回も引き続き、日経新聞3月22日夕刊、こころの玉手箱第4弾最終回、「故藤井将雄投手、強いダイエー、影の功労者」、をご紹介します。


4月1日の初登板、打たれましたね~、メッタ打たれました、期待していたのに残念です。
次回の活躍を期待します、必ずやってくれるでしょう。


ダイエーの1999年の日本一の影の功労者は、藤井将雄だった。

この年、藤井はセットアッパーとしてフル回転の活躍をして、優勝の原動力になった。

このような書き出しから始まる今回のコラムは、工藤の藤井将雄に対する思い入れを強く感じます。

当初、常勝西武から弱小ダイエーに移籍した工藤は、自分の真意を若い選手に伝える事が難しくて、中々馴染めず、チームの中で浮いた存在になっていた。

その様な工藤を藤井は、若い選手の中の間に入って、チームの風通しをよくし、戦える軍団にしてくれたのだ。

優勝パレードの次の日、藤井のがんが見つかったのだ。

翌年、巨人にFA移籍した工藤は、古巣ダイエーと日本シリーズを闘う直前に藤井の訃報を知り、その時の自分の精神的に大きく揺れ動いた状況を切々と語っています。


その時の工藤の気持ちを、ウィキペディア(ネット百科事典)に次のような言葉で語られていました。

巨人移籍後、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交が深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にも拘らずスーツ姿で争議に参列。

ダイエーのユニホームを着た選手と共に棺を担いだ。

当時藤井の本当の病状については、関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかもしれない」と語っている。

新聞記事は、スキャナーでは容量がでかすぎなので、デジカメでアップしながら取りました。

見にくいですが拡大しながら見てやって下さい。

工藤公康no13



工藤公康no14



工藤公康no15



工藤公康no16



最後の言葉、、

ダイエーが強くなったのは、藤井がいたからと皆が分かっている。

あいつが野球を出来ない分まで僕が頑張る、と手を合わせたときに誓った。

その気持ちを持って1年でも長くやっていこうと思う。

いいですね~。

工藤公康、これからも皆で応援するから頑張っていこうね。

工藤公康のプライベートのお話を、少しご紹介します。

工藤の大ファンであった現夫人を工藤に紹介したのは、西武の同僚であった清原和弘である。
工藤夫妻にとって清原こそ「愛のキューピット」であった。

球界では有名な子沢山投手である(2男3女)。

FA宣言による巨人入団の際、長島茂雄が工藤の自宅へ挨拶に訪問した際、工藤の子供が「セコムのおじちゃん」と言った。


直球勝負・工藤公康ひとり言ブログ 結構面白いですよ。

http://www.tokyoheadline.com/blog/kudo/
見てやって下さいね。

次回も、もっと内容の濃いブログをご紹介しますので楽しみに待っててください。
お楽しみ。

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【2007/04/03】  この記事のURL | 工藤公康 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
ハマのおじさん、工藤公康。「極度の緊張、マウンドで震える」
工藤公康、野球を知っている方で名前を知らない方はいないでしょう。

今年で43歳、球界最年長ながら気持ちも新たに、横浜で、”ハマのおじさん”として一からスタートする中高年の鏡です。

今回も引き続き、日経新聞3月21日夕刊、こころの玉手箱第3弾、「極度の緊張、マウンドで震える」、をご紹介します。


今シーズンから横浜ベイスターズ、ハマのおじさんとして移籍した事により巨人から勝利が可能になり、巨人から勝利投手になると史上初の、合併前の近鉄を含め13球団全ての球団から勝ち投手になる事になります。

さすが優勝請負人、期待してますよ。


あの200勝投手工藤公康ことハマのおじさんが、これまでの野球人生の中で、緊張の余りマウンドで震えたことが2回あるそうです。

最初は西武時代の1986年日本シリーズタイ広島第八戦。

3敗1分けの後、3連勝して両者日本一に王手をかけた最終戦、リードして迎えた8回のマウンドの上がった瞬間、
足が震えた。喉も渇きつばも飲み込めない、、、、、、


2回目は、記念すべき200勝目前の2004年8月17日ヤクルトスワローズ戦。

前の時と同じ8回、得点は4対2トリード、ここでひっくり返されたら今年はもう200勝は無理だろう、そう思うと凄い緊張感が襲ってきたのだ、、、、、、、、、

この続きは画面で見てくださいね。

新聞記事はスキャナーでは容量がでかいので、デジカメでアップして作っています。


工藤公康no9



工藤公康no10



工藤公康no11



工藤公康no12




このヤクルトスワローズ戦で2失点完投勝利、通産200勝を達成し、41歳3ヶ月での200勝は現在も史上最年長記録となリました。

そして何とこの試合では、自ら決勝ホームランを打っています。

41歳、23年目でのプロ入り初ホームランは、それぞれ史上最も遅い記録でもあります。

本人は、「パ・リーグで打席に立つ事がなかったのだから、(セ・リーグに移籍して〉5年目の初ホームラン」と語っています。


直球勝負・工藤公康ひとり言ブログ 結構面白いですよ。

http://www.tokyoheadline.com/blog/kudo/

見てやって下さいね。

次回は、彼のダイエー時代の同僚でもあり、公私共に進行の深かった、故藤井将雄投手、「強いダイエー、影の功労者」をお届けします。

お楽しみに下さい。


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