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岳友への鎮魂から絵に没頭、山には青春のにおいがある
1960年代に本格的な登山ブームがやってきた。


スキーや登山用品のエバニューという会社は、有望市場としてトップクライマーの芳野さんや、人気スキーヤーの三浦雄一郎さんを講師に迎え「山としキー映画の夕べ」を全国展開をした。


ちょうど1964年この頃、高校生だった自分は三浦雄一郎氏の講演を聞きに行った事を思い出しました。

三浦雄一郎さんは、その頃今のように有名ではなく、あるスピードスキー世界大会で170km位か、すごい記録出して知る人ぞ知る、世界の人でした。

非常に懐かしいですね。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第5弾、最終回です。



日経新聞3月16日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。
非常に綺麗なパステル画です。
是非ご覧下さい。

http://www.gallery-eizo.gr.jp/artists/yoshino/index.html


1968年から72年にかけて、新田仁郎の小説「栄光の岸壁」が雑誌「山と渓谷」に連載された時期でもあります。



日経新聞3月16日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムの紹介です。


芳野5-1



芳野5-2



芳野5-3



芳野5-4



芳野5-5




第一線を退いた吉野さんは、アフリカ(キリマンジャロに7回登攀)やヒマラヤのトレッキングガイドを勤める傍ら、詩と絵の世界に没頭していきます。

絵には山で逝った友への鎮魂の思いがこめられていた。


芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。
非常に綺麗なパステル画です。
是非ご覧下さい。

http://www.gallery-eizo.gr.jp/artists/yoshino/index.html



「ホットタウン」1997年7月号に、このような記事が載っていました。


芳野さんは山の絵も有名です。


「絵が好きで、芸大を目指しました。不合格でしたが、今も絵筆を握り、山岳雑誌『岳人』の表紙絵を描いています。

展覧会も地元や東京で開催、5月も六本木のギャラリー東京映像で開きました。

絵は山で見つけたものです。

仲間には星、花の研究家になったものもいます。

山に何かがあるということは、こうしたことです」


これからの夢は、外国の山の見えるところで暮らす事。


「今はネパールのカトマンズで小さな家を仮、一年のうち、4ヶ月暮らしています。

生活費が安いのも魅力です。

日本の山とスケールの違うヒマラヤなどは、見るだけでもいいですね」


登山への注意は。


「無理しない事。
山は決して逃げません。
また、山登りを楽しむのも大切。
準備で資料を読んでワクワクしたり、帰って来て写真屋絵の整理したりと、一生楽しめます。」


吉野さんならでの良い言葉ですね~。


重度の障害を持ちながら雪と岸壁に青春を燃やし、世界に踏み出したその生き方は、次の世代に引き継がれ、

植村 直己(エベレスト日本人初登頂、マッキンレー冬期単独初登頂語消息を絶つ)



長谷川 恒男(史上初のアルプス三大北壁冬期単独完登、ウルタル2峰登攀中ナダレに巻き込まれ遭難死)

加藤 保男(第2次RCC同人、冬期エベレスト世界初登頂語遭難死)

今井 通子(女性初のアルプス三大北壁完登)


田部井 淳子(女子登攀クラブ、女性として初のエベレスト登頂者)さんらが世界に羽ばたいていった。


青春譜『山靴の音」は長く読み継がれる。

現在は、「新編 山靴の音」の文庫本が発行されているので読みやすいです。


今回、新聞で偶然芳野満彦氏の記事を見つけ、四十数年ぶりに昔の恋人を見つけたような感覚でした。

それから堰を切ったように、昔の山の本を物置の中から探し出しては読む毎日でした。

おかげでブログの更新もさっぱりせず、仕事もそっちのけで山の本を貪り読む始末でした。

一辺で昔の青春の山に行ってた日々が、竜巻のようによみがえって来ました。

自分も体は昔のように動きませんが、近くの丘や野にハイキングに行ったりはしています。


話に聞くと、吉野さんも8年前に脳梗塞を患ったり、腫瘍の手術もされたと聞いていますが、

しかし、僅かな痕跡を残す程度で、水戸の住まいと東京を一人で往復するなど、障害を乗り越えた闘志は今でも健在です。

画人としても、無為自然の山頭火の境地を行くが如しです。


芳野満彦氏、永遠に栄光あれ。


最後に、吉野さんの言葉、
山には青春のにおいがある。

次回も面白い記事を探してきて発表しますので、ご期待乞う!

楽しみにして下さい。



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【2007/06/01】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
マッターホルン攻略、妻に「われ北壁成功せり」 組んだ仲間、翌週墜死
1956年、槙有恒隊のヒマラヤ山系マナスル初登頂の成功に触発され、にわかに登山者が増加した。


何故山に登るのかの問いに登山家ジョージ・マロリーは「山がそこにあるから」と言ったが、吉野さんの答えは明快だ。


「そこに希望があるからだ。だから僕は、涙して歩く」と。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第4弾です。


日経新聞3月15日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。

1950年から徳沢園冬季山小屋番を始めてから、吉野氏はその徳沢園を足場に穂高蓮峰で徹底的に岩にくらいついた。


積雪期の岸壁が嬉しくてしょうがない。
岩登りは3点確保が基本、片足は使わない場合が多い。

腕は人の数倍も鍛えていたので、小さな足でもさほど苦労はない。

彼はこの時期、北アルプスの岸壁を積雪期を含め、次々に初登攀しています。


1957年3月、前穂高四峰正面岩壁、積雪期初登攀。

パーティー、前園陽太郎、久野泰山、加藤幸彦、高田光政、芳野満彦。


1957年8月、北穂高滝谷グレポン、初登攀。
パーティー、中村保、中村正、芳野満彦。


井上靖の「氷壁」でのステージにもなった、あの有名な滝谷です。


1958年1月、北岳バットレス中央稜、積雪期初登攀。
パーティー、奥山章、甘利仁郎、吉野弘、小板橋徹、芳野満彦。


1958年3月、剣岳チンネ正面岩壁、積雪期初登攀。
パーティー、吉野弘、田中浩司、芳野満彦。


1958年12月、前穂高北尾根屏風岩中央カンテ、積雪期初登攀。
パーティ、吉野弘、小板橋徹、吉野満彦。


パーティーのメンバーをみると、この時代のそうそうたるトップメンバーです。
特に吉野弘氏とは3回組んでますが、「垂直に挑む男」の著書で有名な吉野弘氏です。


日経新聞3月15日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムの紹介す。


芳野4-1



芳野4-2



芳野4-3



芳野4-4



芳野4-5



1962年に結婚し(苗字が服部と変わります)、妻に「山に行く事だけは許して欲しい」と釘を刺した。

国内の岸壁を登り尽くすと翌年、身重の妻を残しヨーロッパアルプスのアイガー北壁へ日本人で初めて挑戦する事になった。

アイガーというのは、スイスのベルナー・オーバーランドにある標高3974mの山。

アルプスの中では、それほど高い山ではないが、その北面の岸壁は、標高差実に1800m、頂上から山麓まで文字通りナタで抉り取ったような凹上の垂直となっていて、夏でも雪と氷で武装した第岸壁である。



更にこの岩壁の大きさと険しさは、アルプスの中でも有数のもので、同じくスイスのブァリスにあるマッターホルンの北壁、フランス・アルプスのグランド・ジョラスの腹壁と並んで「アルプスの三大北壁」といわれています。



最初の年、1963年大蔵大八氏とパートナーを組1000m附近まで達したが悪天候の為撤退、
翌年も悪天候で撤退、三度目となる65年は、渡辺恒明氏と組み最初はアイガーを目指したが、
目標を急遽マッターホルンに変更した。



アイガーは登頂を目指す日本人がひしめき、彼らと先人を争って登るのが嫌いだったからだ。

芳野満彦氏の著書「われ北壁に成功せり」に詳しく書かれています。

我北壁に成功1



日本人のだれも成しえなかったアルプス三大北壁の一つの山頂に、2日間のビバークを経て達したのです。


二人とも後から後から流れ出る涙を止めることが出来なかった
8月6日の午前10時45分、55時間25分の苦闘だった。


妻に電報を打った。


当時流行の007映画「ロシアから愛をこめて」をもじって、
「ツェルマットより愛をこめて、我北壁に成功せり」

かっこいいですね、奥さんと2歳になる娘さん、美穂さんあてに感謝の気持ちを込めて。


パートナーの渡辺恒明氏は、この困難なマッターホルンの1200mの氷の壁をほとんど一人でトップを引き受けて、芳野氏の痛めた足をカバーしてくれたそうです。


芳野氏は昔の凍傷で切断した足先から、血が噴出してきていて、歩いて降りてくるのも大変だったのです。


それでも最後頂上まで20、30mのところで、「芳野さん疲れたから代わってください」と言って
自分を立ててくれたのが、とても嬉しかったそうです。


その一週間後の悲報だった。

このあと、芳野氏は足の負傷が酷いのでアイガー行きを断念、渡辺恒明氏はあらたに高田光政氏とパートナーを組んでアイガー北壁に挑戦しました。



快調に登っていた二人でしたが、頂上も間近で渡辺氏が滑落、高田氏も負傷したが、高田氏一人徹夜で救助を求めに降りたが、残念ながら間に合わず渡辺氏は墜落して亡くなりました。


偉大なアルピニストに、合掌!!!ご冥福をお祈りします。

マッターホルン登りながらで渡辺氏が撮った芳野満彦氏の写真です。

我北壁に成功2


芳野満彦氏がsけっ治したマッターホルンと頂上の十字架です。

マッターホルン1


マッターホルン頂上



今回はココまでですが、次回、芳野満彦氏シリーズ最終回となります。

内容濃くやりますので、お楽しみに。

久し振りに山の本を読み返しています。



芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。

非常に綺麗なパステル画です。

是非ご覧下さい。


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【2007/05/23】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
厳冬期徳沢園山小屋番に、母に見せたかったモルゲンロート
芳野満彦さんの原点である冬の八ケ岳遭難から2年後の1950年11月、彼は上高地にいた。

山への憧憬(しょうけい)はやまない。

高校を休学し涸沢の玄関口、徳沢園の冬季小屋で小屋番として半年間、社会と隔絶された孤独な生活に入る事を選んだ。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第3弾です。


日経新聞3月14日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


今回は、来たアルプス上高地からほど近い、山男たちのベースキャンプとなった徳沢園冬季小屋の小屋番を、晩秋から初夏までフルで三度、途中を含めると11回、やらせてもらった。


芳野光彦氏の著書「山靴の音」やっと見つけました。

山靴の音1



山靴の音2



山靴の音3



本の中の一節、小屋に入った最初の日、、

11月18日

徳沢園の人々は小屋じまいをすませて小雨を降る中を里に下っていった。
私はこの日の来るのを長い間じっと待っていた。

この日から本当の小屋番となったのだ。


犬と共に囲炉裏端に座り、じっと榾火を見つめ小屋晩生活第一日目は静かに暮れていった。
18日夕刻より降り続いた雪はとうとう根雪となり、徳沢園の小屋の周囲はまったく白銀の世界と化した。


この「山靴の音」は、我ら若き日頃の山やのバイブルでした。


本の中にもあるように、吉野氏はまれに見る絵心を持ったアルピニストで、素敵なスケッチと散文詩は、読むものの心を強く揺り動かしたのです。


1月15日


あまりの寒さに思わず飛び起きてしまった。


水銀柱は氷点下28度示している。
室外は32度だ。


久方ぶりに見るモルゲンロート(朝焼け)、神の生まれ出る姿、ただ一面に氷と雪、そして大雪原が、氷の岩峰が一瞬にして形容のしがたい美しい真紅の絵具で塗りつぶされる。


その瞬間は何人といえども頭が下がるだろう。
いったいこの景色を何人の人が知っているだろう。
おそらくこの姿に接した人は数える人しかいないと思う。


私にはこの神々しいまでに美しく厳かな光景を、人目でも見せたい人がいる。
いつも私が山に出かける時、心配そうな顔をして必ず家の門まで贈ってくれる母親だ。


いつも心配してくるる母親にこのモルゲンロートの一瞬間を見せたら、いったい何と言うだろう。
一度でいいから見せたいものだ。


中々名文ですね~。
何度読んでも新たな感動がこみ上げてきます。


何はともあれ新聞記事を紹介します。


芳野9



芳野10



芳野11



芳野12



芳野13



厳冬期の越冬生活が「山に生きる」不屈の精神を鍛えていった。


山小屋で大学の山岳部や山岳会の仲間と心を通じ、冬の穂高を自らも登った。
長い孤独を一匹の犬「ゴンベー」が癒してくれた。

「ゴンベーと雪崩」-犬とアンザイレンした話ー

ゴンベーは駄犬である。
だがゴンベーは大したものである。
ぼくはゴンベーが大好きだ。

で始まるエッセイは、芳野満彦氏とゴンベーの心暖まるジョークの効いたお話です。


前穂高三峰フェースに挑む時、一緒ついてきた。

ちょっとした不注意でザイルがゴンベーに引っかかり、標高差300m、距離にして1000mも転落してしまった。


死んだと思った。
ところが一つの黒点がまっしぐらに駆け上がってくる。
ゴンベーは生きていた。

人なら一日かかるところを15分で登ってきた。
荒い息に痛々しい姿に「勘弁してくれ、な、ゴンベー」僕は謝った。


そのあとゴンベーと一緒に縦走を続け、、今度は表層雪崩に巻き込まれた。

いくらゴンベーと読んで探しても見つからず、今度こそは本当に駄目かと思って、上高地の徳沢園の親父に報告すると、


「おれはナ、ナダレに会って死ぬような犬は飼わないようにしているんだッ!」
「え?じゃゴンベーは?」
「いま、おれの前でピンピンしているワ」


-僕は体がヘタヘタト崩れそうに嬉しかった。

ゴンベーは駄犬である。
だがゴンベーは大したものである。
ぼくはゴンベーが大好きだ。

中々 いいでしょう。

満彦君とゴンベーの心暖まるお話でした。


次回も「五文足のアルピニスト」第4弾、いきまっせ!!
乞う!ご期待。


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【2007/05/14】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(0) | TB(2) | ▲ top
小さな足、血を流し歩行訓練 1年後には谷川岳へ
前回、センセーショナルの見出しでご紹介した、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第2弾です。

日経新聞3月12日の夕刊ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


17歳の芳野満彦氏の少年が、八ヶ岳から九死に一生を得て生還したが、両足のつま先を切断、つま先よりかかとの骨のほうが出っ張って見える12センチの足になってしまった。


吉野氏のかの有名な通称「12文足のアルピニスト」と言われる所以です。

早速自宅の古い本をあたって見たら、見つけました。


栄光の岸壁



昔の本はブックカバーに入っていたんだと、改めて思いました。
そういえば現在ブックカバーを使用している本、中々見当たりませんです。

肝心の芳野満彦著の「山靴の音」はどこへ行ったか見つけられません。
この本は何度も読み直して、いわば自分の山のバイブルみたいなものでした。

残念です。

でもこんな本も有りました。

氷壁



風雪のビバーク



「風雪のビバーク」は、松濤明氏の遺稿集です。

芳野光彦氏が八ッ岳で遭難したすぐ後、槍ケ岳の北鎌尾根を縦走中に二人で遭難死します。
その時松濤明氏が死の直前まで手帳に「足が凍え腰まで凍ってきた」と「風雪のビバーク」という遺稿集を残しました。

上記三冊は、神田神保町の古本屋街で見つけたものです。
当時自分は20代の前半位で、いつも懐寂しく、ピーピーしてました。

芳野光彦氏はつま先切断後、今から考えると信じられない位の超特訓を重ね、半年後にはやっとフラフラしながら外に出る事が出来たそうです。

1年後の5月、弟と谷川岳に行き、思い通りに行かなかったので帰って徹底的に歩行訓練をしました。
その夏には兄貴と白馬岳に行き、頂上まで登れたそうです。

まさに超人ですね、今時この様な事をしたら、超人ではなく多分狂人と呼ばれんじゃないでしょうか?

何はともあれ、芳野満彦氏の「山で育てた不屈の闘志、第2弾」をゆっくりご覧下さい。

新聞記事が横に長く、デジカメで要領よく取れなくて何枚にもなりました。
多少醜いですが、クリックして拡大してご覧下さい。


芳野満彦4


芳野満彦5


芳野満彦6


芳野満彦7


芳野満彦8



父は早大商学部教授でワンダーフォーゲルの部長、男5人兄弟の2番目で、末弟は東京五輪でボートのコックス、他はみな山男という山一家だったそうです。

これからは凄まじい限りの吉野氏の山歩きが始まります。

我ら青春の1ページを飾った、「五文足のアルピニスト」芳野満彦氏の山歩きを堪能してください。

次回も気合を入れて書きますので、お楽しみに。

乞う、ご期待!!!


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芳野満彦4

【2007/04/27】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(1) | TB(0) | ▲ top
八ヶ岳で遭難、足先失う わらじを食べてしのぐ
今回のセンセーショナルなブログタイトル、突然で吃驚しましたでしょう。


実は、3月12日の日経新聞夕刊の人間発見のコラムで見つけました。

自分自身もこの記事を拝見した時は、約40年も近くタイムスリップしたかのようでした。


1968年~72年にかけて新田次郎の小説「栄光の岸壁」が雑誌「山と渓谷」に連載され、実在のモデルとなった人物です。

本当に懐かしく昔の友人にあったかのようです。

ある程度山をやった方なら必ず覚えている名前です。


「単独行」の加藤文太郎氏、「風雪のビバーク」の松濤明氏、そして「栄光の岸壁」の芳野満彦氏です。

その松濤明氏もあの有名な井上靖の小説「氷壁」のモデルでもあり、同じ時期に槍ヶ岳の北鎌尾根を縦走中に遭難死しています。


自分自身も17歳~25歳まで、かなり密度の濃い山歩きをしてました。

最初は東北の山から始まり、関東での近場、秩父、丹沢からスタートすると、当然北アルプス、中央アルプス、南アルプスを目指し、それからさらに立山連邦、後立山、剣岳を目指しました。


予行日帰りの出来る谷川岳は、ホームグランドのように数え切れないくらい通いました。


何故かほとんど単独行、厳冬期の1月~2月だけをはずし、12月始めの富士山に登った時は初めてアイゼンとピッケルを使用し、師匠がいないので登ってくるベテランの方のやり方を真似て憶えました。

この時期の自分の憧れの人、伝説の人が芳野光彦氏だったのです。

その方が現在、75歳で画人として無為自然の山頭火の境地をいくかの如く、元気に水戸と東京を一人で行き来していると聞き、嬉しく思いました。

確か昭和23年(1948)に12月の八ヶ岳で遭難し、11日目に奇跡の生還、その時の凍傷で両足のつま先全部切り落としたと聞いています。


昭和23年(1948)は、自分が生まれた年でもあり強烈に印象に残り、自分も八ッ岳に谷川岳と同じ回数位何度も通いました。


時には吉野氏と遭難死した八巻氏が辿ったルートをなぞなえながら登った時も有りました。

まさに青春の一ページでした。


先ずは日経夕刊人間発見、山岳画家、芳野満彦氏をご覧下さい。
新聞記事はキャスナーを使うとバイト数がバカデカクなるので、デジカメで撮りました。

クリックし、拡大してゆっくりご覧下さい。


芳野満彦1



芳野満彦2



芳野満彦3



芳野氏の凄まじいほどの山への熱い情熱、その後の強烈な人生の生き様に共感を覚え、突然タイムスリップしたかのよう、あの頃の自分自身にあった潜在意識が溢れるように湧き出した来ました。

その気持ちが非常に新鮮に感じ、また自分が再度心が洗われる爽やかな感覚になりました。

この気持ちを皆様にお伝えしたく、ブログに紹介しました。

この連載は計5回、後4回シリーズでご紹介します。

いまどき、これほど徹底した山歩きをしたり、人生に向かっていった人を見たことがありません。

結構良い刺激になりますので、お楽しみにして下さいね。

乞う、ご期待!!!


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【2007/04/25】  この記事のURL | 山岳画家芳野満彦 | CM(2) | TB(0) | ▲ top
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